大手門より  半蔵門へ

まえがき
 江戸城を内堀に沿って一周するコースは、都心にありながら、信号で一度も止められずに約8kmを散策することができる。今回は、江戸城の正面玄関である大手門から時計回りに一周して、再び大手門に戻るコースを歩き、その前半の半蔵門までをその1とし、残りの後半をその2としてまとめる。

 江戸城は武蔵国の豪族江戸氏が築いたであったが、鎌倉時代(
12世紀)になって江戸氏の勢力が衰えると同時に廃墟となった。康正2年(1457)、太田道潅(1432〜86)がここに再び城を築いたが、当時は日比谷、丸の内あたりは海で「わが庵は松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端にぞ見る」といった風光明媚な漁村であった。その後、江戸城は北条氏、豊臣氏、徳川氏により支配された。家康が入府して江戸城改修が始められ、慶長8年(1603)征夷大将軍となってからは日本中の諸大名に命じて天下普請をおこない、37年後の三代将軍家光の寛永17年(1640)に一応の完成をみた。しかし、明暦3年(1657)の振袖火事により5層6階の天守閣は焼失し、それ以後天守閣は再築されなかった。明治元年(1868)、江戸城無血開を経て朝廷に明け渡され、皇居となって今日に至っている。
 地図
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 大手門は江戸城の正面玄関に相当する門で、他の門は2,3万石の大名が警備にあたったが、大手門は10万石以上の譜代大名警備にあたった。明暦大火で類焼したが、渡櫓門が復元され、かっての江戸城の偉容を再現している。

 和田倉橋の対面にメルヘンチックな銀行倶楽部の建物が見える。ここが評定所跡で、複数の奉行所にまたがるもめごとを、老中、大目付、三奉行などが列席して裁いた、今日の最高裁判所に相当する所である。
大手門
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評定所跡
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 大手門から桔梗濠を右手に見て少し行くと左手が和田倉濠で、ここに架かる和田倉橋は平川橋と並んで、江戸の面影を今日に伝える美しい景観が見られる。

 和田倉橋と和田倉門は一体になって桝形を形成していたが、和田倉門は今は無く、標識だけが立っている。

 説明板には、和田倉の名のいわれなどが記されている。
和田倉橋
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和田倉橋説明板
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和田倉門跡
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 その先に平成天皇御婚礼記念噴水公園が見えてくる。回りのビル群とマッチした景観で、みんなの憩いの空間である。

 ここで濠に沿って右折すると、右前方に桔梗門が見える。桔梗門の名称は、太田道灌の桔梗紋の屋根瓦がこの門に残っていたから、など諸説がある。なお、江戸時代は内桜田門が正式名称で、桔梗門は通称であった。



噴水公園
桔梗門(内桜田門)
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 濠に沿って左折し、また右折すると坂下門が見えてくる。門に向かって右側の濠は蛤濠である。

 ここは文久2年(1862)、将軍家茂への和宮降嫁に激怒した水戸浪士が、老中・安藤対馬守信正の登城行列を襲った(坂下門の変)所である。

 現在は宮内庁への通用門となっている。青い屋根は宮内庁の建物である

坂下門
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 坂下門に向かって左側が二重橋濠である。皇居前広場を進んで二重橋前に至る。

 正月の一般参賀の時には、手前のめがね橋石橋)を右から左に渡って正門をくぐリ、ここでコの字型に回って鉄の橋(写真では奥に写っている)を左から右に渡って皇居に入る。二重橋のいわれは、この奥の橋が上下2層の2重構造になっていたからである。めがね橋も二重橋も、江戸時代は木製であった。

 なお、奥に伏見櫓を配したこの地点が、写真撮影には最良のポイントとされている。
めがね橋と二重橋
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 濠に沿って歩を進めると桜田門に至る。正式名称は外桜田門である。

 外側の高麗門と内側の渡櫓門(わたりやぐらもん)により造られた桝形とよばれる四角形の広場があり、敵が直線的に通り抜けられないように、いわゆる桝形門になっている。

 櫓門のすぐ脇に、桜田門櫓門の碑が建っている。

桜田門櫓門
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桜田門櫓門の碑
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 桜田堀に沿って内堀通を進む。最高裁判所の前の三宅坂の信号のあたりで桜田門を振り返ると、高麗門とその奥に桜田門が見える。

 万延元年(1860)、この高麗門の外で、水戸浪士による大老・井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きた。写真の中央、真正面の位置である。

 彦根藩上屋敷井伊邸)は、現在の憲政記念館から国会前庭洋式庭園の辺りで、桜田門から西(写真の右手)に500mほどの所であった。

桜田壕から見た桜田門
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 桜田壕を右に見て三宅坂の登り坂が始まる辺りに、1本の柳が植えられていているのが見える。そのそばに、柳の井戸の説明板が立ててある。通行人の渇きを癒した、名水の井戸の跡という。

 上の写真でも分かるが、このあたりは石垣ではなく、土居になっている。
柳の井戸の
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柳の井戸の説明板
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 500mほどして半蔵門に至る。門の名は、その警備の任に当たっていた服部半蔵に由来する。

 門外には、服部半蔵の部下である伊賀同心らが屋敷を構えていた。城の西端に位置し、まっすぐ甲州街道に通じており、大手門とは正反対の位置にある。

 天皇や皇族は、皇居への出入り口として、主としてここを利用される。
半蔵門
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あとがき
 
ここまでで内堀を約半周した。歩いた距離は少ないが、歴史的には大きな事件のあったところである。

 続いて、千鳥ケ淵から竹橋を経て大手門まで進むが、ホームページはいったん区切って、以下はその2として掲載する。

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