旧日光街道を北上して千住仲町のはずれ(18,19番地)で、ゆうやけ通りに出る。ここは千住堀の熊谷堤であったところである。この通りに出る右手に、一里塚跡の標識がある。 一里塚跡の標識の反対側に、千住高札場跡の標識がある。いずれも背が低いので、、上を向いて歩いていると見落としてしまいそうである。 ゆうやけ通りを渡ってすぐ左手に、千住宿問屋場(といやば)貫目改所(かんめあらためじょ)跡の石柱の標識と説明盤が出ている(右の写真には、石柱の標識は写っていない)。 |
一里塚跡
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貫目改所跡 click |
さらに150mほど行くと右手にスーパ、トポスがあり、そこを右折して100mほど行くと都税事務所がある。その一角に森鴎外旧居橘井堂(きつせいどう)跡の石碑がある。森鴎外の父静男が、明治14年(1881)、ここに橘井堂森医院を開業した。当寺、鴎外は陸軍軍医副としてここから陸軍病院に通い、4年後にドイツに留学している。 旧日光街道に戻って150mほど行くと、左手に赤門寺という通称で親しまれている勝専寺がある。ここは、将軍・秀忠、家光、家綱が日光参詣のおり利用したところで、由緒ある寺である。また、千住の地名の由来となった木造の千手観音像が安置されている寺でもある。 |
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勝専寺を出た辺りが、駅前の商店街として賑わっている。 千住3丁目に入ってすぐの狭い道を右折して50mほど行った左手が、千住宿で一番大きかった旅籠中田屋の跡である。今は特に何もない。 この細い道の反対側の狭い道が見番横丁で、その道の北側が本陣跡である。詳細は、千住本陣跡とその周辺説明書を参照していただきたい。 |
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説明書 click |
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千住4丁目に入って5本目(確か?)の角を右折して100mほど行くと、長円寺がある。 ここには魚藍観音や多くの人の信仰を集めていためやみ地蔵がある。また、八十八か所巡り毛彫石碣(せっけつ)は、芸術の香り高い作品で、民俗信仰を知る上で、貴重なものである。 |
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毛彫り石碣 click |
長円寺の先に氷川神社がある。 また、旧日光街道の東側には本氷川神社がある。 写真はないが、千住仲町にも氷川神社があった。 |
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少し回り道をしたが、再び旧日光街道に戻って歩を進めると左側に絵馬屋吉田家がある。吉田家は絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋である。 その筋向かいが、宿場町の名残として伝馬屋敷の面影を今に伝えている横山家(商家)である。 この筋向かいの角が、かどやの槍かけだんごの店である。建物は明40年のもので、団子屋は昭和27年に始めたという。黄門様が松に槍を立てかけて団子を食べたから、槍掛け団子だとか。 |
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そろそろ江戸川の堤であると思っていると、右手に名倉医院の看板が見えてくる。駐車場をとおして江戸時代の名残を留めた長屋門が見える。開業は明和年間(1764〜)で、240年も続いている病院である。 骨接ぎの名医ということで全国から大八車に乗せられた患者などが集まってきたので、病院の周りには患者専用の旅籠が何軒も営業していたというほどである。 医院の前に、旧下妻道の道標が立っていた。 |
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最後は、旧日光街道の左側にある安養院である。境内に仲直し(なかよし)地蔵尊と、かんかん地蔵尊が祀られている。 2体並んで立っている仲良し地蔵尊の、左が寛文4年(1664年)建立、右が寛文10年(1670年)建立とある。 仲良し地蔵尊に向かって左に立っているのは、顔が白く見えるかんかん地蔵尊である。石で叩くとかんかんと音がし、願い事がよく叶うというので、顔の辺りが崩れて白く見えているわけである。建立は元禄12年(1699年)という。 |
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いよいよ荒川(荒川放水路)の土手に到着した。 左の写真(下流側):三基の鉄橋が見える。手前から、地下鉄千代田線、JR常磐線、東武伊勢崎線の鉄橋である。 右の写真(上流側):荒川の土手が広がっているが、その先に千住新橋が見える。旧日光街道は、千住新橋の上流側から北に延びている。 荒川は、大正2年(1913)より昭和5年(1930)にかけて掘削された人口河川(放水路)である。これにさえぎられて旧日光街道は、ここでいったん姿を消している。 |
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