南千住駅から 源長寺(千住仲町)へ
JR常磐線の南千住駅または営団地下鉄日比谷線の南千住駅で下車し、コツ通り(南口)方面に出てすぐ、常磐線の線路脇に延命寺がある。 ここは小塚原刑場跡で、鈴が森よりも多くの斬首がなされたという。広さは、間口60間(108m)、奥行き30間(54m)であった。 これらの菩提を弔うために、大きな(高さ3.6m)地蔵尊が祀られた。これを、首切り地蔵という。 |
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延命寺を出て常磐線のガードをくぐるとすぐに回向院である。ここには、行路病者・刑死者の菩提を弔うため、寛文7年(1667)に本所回向院の別院として建てられたという。 明和8年(1771)杉田玄白、前野良沢らは処刑された女性の腑分け(解剖)に立会い、それから「ターヘル・アナトミア」の翻訳に努め、安永3年(1774)に「解体新書」5巻を世に出した。 蘭学を生んだ解剖の記念碑が、境内に入るとすぐ右手の壁に取り付けられている。 |
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吉田松陰、橋本佐内らは伝馬町の牢屋敷で処刑されているが、国事犯の刑死者は一旦はここ小塚原に埋葬された。安政の大獄の犠牲者の墓が多くある。 同じ墓地の中に奇人の墓が4個並んでいる。 一番右の腕の形をした墓は、寛文年間(1661〜72)の侠客腕の喜三郎の墓である。彼は、喧嘩で片腕を落ちそうなほど切られ、それを家に帰って子分に鋸で切り取らせ、片方の手で汗を拭いていたという、気っぷのいい侠客で、歌舞伎『茲江戸小腕達引(ここはえどこうでのたてひき)』に登場するヒーローである。 右から2番目は高橋お伝(1848〜1879)の墓で、墓石は谷中墓地にもある。やはり「綴合於伝仮名書(とじあわせおでんのかなぶみ)」というお芝居になっている。 右から3番目は、歌舞伎「雪暮夜入谷畦道」(ゆきのゆうべ いりやのあぜみち)にでてくる、御家人くずれで河内山宗俊の弟分でさまざまな悪事に手を染める直侍(なおざむらい)こと片岡直次郎(〜1879)の墓である。 一番左に直侍の墓石の影に見えるのは、削られて小さくなった鼠小僧次郎吉(1797〜1832)の墓石である。この古い墓石の前には新しい墓石(写真には写っていない)が立っている。鼠小僧の墓は、本所回向院にもある。 |
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回向院から北に通称コツ通りを250mほど行き南千住7丁目の信号を左折する(旧日光街道は左折せずに直進する)。約350m進むと国道4号線(新日光街道)に出る。斜め左前に円通寺が見える。 慶応4年(1868)、上野戦争における彰義隊の遺体266体を、この寺の佛磨(ぶつま)和尚が官許を得て当寺に収骨し、彰義隊士の墓や死節の墓を建立した。当時、大ぴらに賊軍の法要ができる日本で唯一の寺であった。 |
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彰義隊士の墓 click |
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その縁があって、明40年(1907)、弾痕の跡も生々しい寛永寺の黒門が下賜された。 新門辰五郎の碑もある。慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いに敗れた15代将軍慶喜は、狼狽のあまり開祖家康公の馬印を大阪城に忘れてきた。このとき町火消しの辰五郎がこれを取ってきたので、将軍の面目を保ったという。 また、八幡太郎義家が奥州征伐に際し48の賊首を挙げ48基の小さな首塚を築いた。それからこの地を「小塚原」と呼ぶようになったとある。 |
寛永寺の黒門
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円通寺を出て日光街道沿いに約400mいくとコツ通りとの合流点に出る。ここに素盞雄(すさのお)神社がある。 境内に幹周り3.3m、高さ30mの大銀杏があり、この木の皮を煎じて飲むと乳の出がよくなるとの伝承があることから、絵馬を奉納して祈願する習わしが現在に続いている。 |
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延暦14年(795)、小塚の上の2個の奇岩が突如光を放ち、そこにスサノオ大神、アスカ大神が降臨し、当社が創建されるに至った。2個の奇岩は瑞光石として、祀られている。この小塚は小塚原の地名の基になっているという。 境内には、地蔵を中心に庚申塔3基、宝篋印塔1基などからなる石仏群がある。 芭蕉が船を下りて見送りの弟子たちと別れたのは、千住大橋上流の右岸だとする説があり、ここにも芭蕉の「魚の目には泪」の句碑がある。 |
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千住大橋の手前100mほどの左側に誓願寺がある。 境内に、親の仇討ちをした子狸の伝承を残す狸塚(狸獣墓)がある。 伝承とは、橋の袂の魚屋で、売り物の魚が時々なくなる。調べてみると、古狸が来てくわえていく。魚屋は、古狸を捕らえて打ち殺してしまった。それからというものは、売り物の魚がふわふわと宙に浮く珍事が続いた。祈祷師にみてもらうと、子狸が親の仇討ちとして仕掛けていることが分かり、古狸供養のため狸塚を祀ったという。 |
誓願寺 |
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誓願寺から千住大橋にいく間の歩道の左側に、「八紘一宇」の碑がぽつんと寂しげに建っている。「八紘」とは天下、世界を意味し、「一宇」とは1棟あるいは一つ屋根の下に暮らす家族の意味である。 千住大橋は、家康が江戸に入って4年目の文禄3年(1594)に架けられ「千住大橋(小塚原橋とも)」と呼ばれていた。 幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外を認めなかったが、後に両国橋、新大橋、永代橋、大橋(今の吾妻橋)の隅田四橋が架けられた。 |
八紘一宇の碑 |
千住大橋 |
千住大橋を渡ると中組(仲宿)に入る。千住橋戸町、千住河原町、千住仲町が中組みと見当をつける。 千住大橋を渡って左岸橋詰めに、奥の細道矢立始めの地の碑がある。素盞雄神社のところでも書いたが、矢立始めの地は、左岸か右岸かの二説がある。 河岸に下りると、橋桁や堤防の壁面に、奥の細道の絵や、橋や河の全国番付などが大きく書かれていて、目を楽しませてくれる。 |
矢立始めの地 click |
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橋戸稲荷神社は半農半漁の開拓民の信仰の的であった。古い日光街道はこの神社の近くを通っており、大橋が架けられると人馬の往来が激しくなり、神社の周辺は繁盛を極めた。その結果、稲荷神社はより多くの人の信仰を集めた。 文久3年(1863)拝殿の前扉に、当時、鏝絵の名工といわれた伊豆長八の創作で白狐が彫刻された。長八の数少ない貴重な遺作である。 |
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橋から約200m進むと、甲州街道は新街道と旧街道が分かれる。右手の旧街道を行くと、道の右側に芭蕉の像が出迎えている。ここから先は、旧街道の趣が感じられる。 この辺りは、いろいろな物資の集散地としてにぎわった。中でも、青果物の江戸への大供給地として、やっちゃ場があった。街道沿いの商店には、昔はこの家が何屋であったかを書いた板が各戸口に取り付けてあり、これらを眺めているだけでも散策を楽しくしてくれた。 |
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その先左側に、歴史プチテラスがある。宿場の資料が展示してあり、また有益な資料を入手できるはずであったが、当日は休館日であった。 芭蕉の像から約200mで墨堤通りに出る。その左斜め前の角に源長寺がある。門をくぐった左手に、初代三遊亭圓朝が寄贈した灯篭がある。 |
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圓朝寄贈灯篭 click |
あとがき 今回歩いた距離は2km程度であるが、国道4号線に沿って新日光街道を歩いてきたので、宿場町を歩いてきた感じがしなかった。芭蕉の像に出迎えられた地点からやっと旧街道の雰囲気が現れてきた。これからは江戸時代の史跡を訪ねることになるが、それらは次回のお楽しみとする。 天保15年(1844年)の「日光道中宿村大概帳」には千住宿が南北32町19間(3.53km)と記されており、江戸四宿の中で最も長い宿場であった。 日光街道は日本橋より宇都宮を経て日光の鉢石に至る街道をいい、奥州街道は日本橋から宇都宮を経て白川までの街道をいう。したがって、日本橋から宇都宮までは両街道が共通になっていて、日光街道と呼ばれていた。 また、日光御成街道というのは、将軍が日光東照宮へ参社する際に利用された脇街道である。 蛇足ながら、「街道てくてく旅」というNHKの番組で、9月25日に、卓球選手・四元奈生美さんが、ちょうどこの千住宿を歩いていたところが放映された。 |