板橋区役所前から JR板橋駅へ
王子新道から再び中山道に戻る。地下鉄板橋区役所前駅の手前に遍照寺がある。 遍照寺は明治4年廃寺になり、昭和22年真言宗の寺院として再興した。 境内は板橋宿の馬つなぎ場で、50頭が用意されていた。今も馬頭観音が残っている。となりに妓楼「伊勢孫楼」があった。 |
遍照寺 click |
遍照寺境内 |
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平尾宿の脇本陣豊田家の屋敷跡で、近藤勇が処刑されるまでの間監禁されていた所でもある。 板橋区の観光センターの近くに、妓楼「新藤(しんふじ)楼」の跡がある。板橋宿には数十軒の妓楼があったが、そのなかで「新藤楼」は最大の妓楼であった。明治30年頃には遊女30数人を抱えていた。その跡は今はビルになっているが、ビルの前には「中山道板橋宿今昔八景」の切り絵と説明書きが掲示されている。 |
平尾宿脇本陣跡 click |
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観明(かんみょう)寺は室町時代の創建で、山門は加賀藩下屋敷の通用門であったもので、朱塗りである。 境内には、寛文元年(1661)の青面金剛像が彫られたものとしては都内最古の庚申塔や加賀藩下屋敷から移されたとされる稲荷神社がある。 |
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また、天然痘の厄除けを祈願して造られた「疱瘡の石仏」などがある。 明治になって、商店街の発展を祈って成田山新勝寺から不動尊を勧請した。この不動尊は「出世不動」と呼ばれ、上記の稲荷神社も「出世稲荷」と呼ばれるようになり、街の人に親しまれている。また商店街は「不動通り商店街」と呼ばれている。 |
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国道17号線に出たところが、東光寺である。東光寺の境内左手には板橋区内に現存する最大級の庚申塔がある(写真の右から3つ目の塔)。 |
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また、慶長5年(1600)の関が原の戦いで敗れて八丈島に流された西軍の副将・宇喜多秀家の墓がある。 秀家は備前岡山の人であるが、加賀藩主前田家と親戚関係にあったので死罪を免れ流罪となり、また明治3年に赦免されたときも、前田家の下屋敷のあった板橋に居を構え、墓も東光寺に造られた。八丈島に流された時は一族12人であったが、帰還したときは一族71人であった。 境内には、江戸時代に平尾一里塚の上にあったと伝わる有形文化財の、石造の地蔵菩薩坐像がある。高い台座のうえに鎮座ましまして、われわれを見下ろしておられる。 |
宇喜田秀家の墓 click |
地蔵菩薩坐像 click |
東光寺の前辺りが平尾追分である。 現在は、「平尾」という正式地名はなく、唯一、昔の平尾追分の辺りにある「平尾交番(派出所)」にその名を留めているのみだという。 この先を旧中山道にしたがって600mほどいくとJR埼京線の踏切を渡る。その先に信号のところが平尾一里塚のあったところである。ここを右にまがるとJR板橋の駅に出る。 |
平尾追分近辺 |
JR板橋駅前に近藤勇、新選組隊士の墓所がある。 ここはJR 板橋駅の真向かいであるが、寿徳寺境外墓地になっている。 慶応4年(1868)平尾一里塚付近で官軍により斬首された近藤勇の首級は京都に移送され、胴体はここに埋葬された。 墓碑は高さ3.6mの独特の細長い角柱で、正面には 「近藤勇 ¥ケ 土方歳三 義豊 之墓」 と刻まれている。 近藤と意見が合わず袂を分かった永倉新八が、協力者を得て建てたものである。但し、近藤勇の諱(いみな)「昌=iまさよし)」が何故か「¥ケ」と逆に彫られている。その理由は不明だという。 |
土方歳三の墓、 左側に永倉新八の墓、 右側に近藤勇の立像 が見える。 click |
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この墓地は塀などがなく開放的で、外からよく見える。駅前の観光スポットであり、常時、参拝者あるいは探訪者が絶えない。寄せ書きのノートが置いてあったり、お志で線香がいただけるように、また火をつけるライターが置いてあったりして、気配りが行き届いている。 |
近藤勇立像 click |
供養塔の説明板 click |
あとがき 中山道はこの板橋宿を経て、木曽路を通って京の三条大橋に至る69次(「次」とは宿場のことであるから、江戸の日本橋と京の三条大橋は含まない)、134里(約536km)の、東海道に次ぐ繁華な街道であった。 参勤交代などで東海道を利用する大名は159家、これに対して中山道は34家、奥州道中は37家、日光道中は6家、甲州道中は3家であった。 五街道のうちでも、天皇のいる京都及び経済の中心である大阪を結ぶ東海道と中山道は特に重要視されていた。 今回は、そんな中山道の初宿を上宿から下(平尾)宿に向けて走破し、これに加えて、近藤勇の墓所までも足を伸ばしてみた。 次回は、江戸四宿の写真散歩の最後となる、千住宿を歩くこととする。 |