まえがき
先回の「その1」においては、天竜寺辺りから四谷の大木戸まで、歓楽の賑わいを見せていた内藤新宿の面影をたどってみた。

今回は、大木戸からその先の寺町筋を通って四谷見附まで歩くこととする。四谷怪談のお岩様や服部半蔵、または鬼平こと長谷川平蔵が出てくるコースである。

はじめに断っておくが、今回のコースは道順が大変分かりにくい。坂道が多く、三つ角や突き当たりの道も多い。1万分の1の地図では道順が分かりかねるので、前もって所在を調査してから出かけるとよい。
地図
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四谷の大木戸跡から新宿通りを地下鉄の四谷三丁目駅に向かって300mほど行った右手に「笹寺」の門柱が立っている。正式には長善寺である。

熊笹が生い茂っていたので、鷹狩の途中で休息した二代将軍秀忠が命名したという。

寺宝として、高さ5cmほどの赤メノウで造られたメノウ観音像がある。

境内入って右手に四谷勧進相撲始祖の大きな碑がある。戦災で損傷し、針金で補修してある。

また、慶応大学医学部が、実験で犠牲になった「がま蛙」の供養として建てたがま塚がある。
暫し合掌す。

笹寺
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勧進相撲の碑
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がま塚
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四谷3丁目の交差点を右折し外苑東通りを100mほど南進したあたりで、左に入る。入り口は地元の人に聞くがよい。少し行ってまた右折し、150mほど行くと右手にお岩稲荷田宮神社、「お岩様ゆかりの地」がある。

四谷怪談」のお岩さんについては、こんな説もある。江戸初期に四谷左門町に、けなげな一生を幸せに送ったお岩という実在の女性がいた。お岩さんの幸運にあやかろうと、お岩さんが信仰していた屋敷稲荷に参拝者が絶えなかった。それから200年ほどを経て、鶴屋南北が巷の事故・事件を取り混ぜて「東海道四谷怪談」を脚色し、歌舞伎で大ヒットした。この歌舞伎は舞台装置が大掛かりだったため事故が多かった。こんなとこからお岩さんの祟り説が出て、歌舞伎役者の参拝が慣例となった。歌舞伎が大当たりするように商売が繁盛し、開運無病息災を願って多くの人がお参りに来るようになったという。


お岩稲荷田宮神社
お岩様
ゆかりの地

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お岩稲荷田宮神社の真向かいに、お岩稲荷陽運寺があり、「ゆかりの井戸」がある。



お岩稲荷陽運寺


ゆかりの井戸
お岩稲荷を南に150mくらい下ってくると、その突き当りが、本性寺(須賀町13)である。

家康が北の伊達氏が謀反を起こさぬよう、北方の守護神、毘沙門天を北向に安置したところから「北向き毘沙門天」といわれるようになった。

北向き毘沙門天
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須賀神社に行く途中で道を間違え、遠回りをしてしまった。

須賀神社(須賀町5)は四谷の産土神で総鎮守である。明治以前は牛頭(ごず)天王社と称していた。

社殿内には三十六歌仙の奉納絵があり、境内には大国主命の社殿や、天白稲荷神社や、また火消しの「く組」の顕彰碑等がある。


須賀神社
「く組」の碑
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天白稲荷神社

須賀神社から少し戻って円通寺坂を途中まで上ると、右側に祥山寺(若葉1-1)がある。門が通りより奥の方にあるので、入り口は非常に分かりにくい。

祥山寺の辺りは伊賀町といって、伊賀忍者が多く居を構えていた。この寺には忍者を供養する忍者地蔵があり、忍者寺ともいわれている。

今来た道を戻り、隣の東福院坂の途中にある東福院(若葉2-2)をたずねる。

寺の入り口に、右手の欠けた豆腐地蔵がある。貪欲な豆腐屋がいた。坊さんが来て豆腐を買っていくと売り上げ金がシキミの葉に化けてしまうので、ある日、跡をつけて行って坊さんの手を切ってしまう。これは、あくどい豆腐屋を懲らしめるための地蔵さんの化身の仕業であると知って、豆腐屋は罪を悔い、お堂を建てお地蔵さんを信仰したという。

東福」とは「豆腐食う」の意か。

忍者地蔵
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豆腐地蔵
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東福院から戒行寺(須賀町9)へは、住居標識を頼りに歩いた。

池波正太郎の「鬼平犯科帳」によって広く知られている「鬼平」こと、火付盗賊改方長官長谷川平蔵宣以(のぶため)(1745〜95)の菩提寺で、平蔵の供養碑がある。

長官在任8年は最長記録であり、その間、松平定信の命により設置した石川島人足寄場は、無宿人たちに職を与えると同時に、市中の治安を安定させるのに役立った。この辺りの話は、「江戸文化歴史検定」の試験問題に出そうな気がするところである。


ついでながら、池波正太郎の墓は、西光寺(東上野6-15)にある。


戒行寺
平蔵の
供養碑

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真成院(若葉2-7)には潮(塩)踏観音、別名、潮干観音が祀られている。江戸期以前は、四谷界隈は潮の満ち干により観音様の台石が濡れたり乾いたりしたので、斯く名付けられた。

ここに献眼を受けた方の感謝の「献眼慰霊碑」がある。碑には「光をプレゼントしてくださった みたまに心から 感謝をささげます 中山フサ」と刻まれている

真成院と西念寺は、住所は2番地違いであるが、道順は分かりにくい。ぐるりと、「の」の字を書くように登り道を廻り込む。

西念寺(若葉2-9)には、半蔵門にその名を残す2代服部半蔵正成(1541〜96)の墓がある。父は伊賀出身の初代服部半蔵保長、息子が3代服部半蔵正就である。2代半蔵は、家康が三方ケ原で武田軍に敗れて逃走したとき、得意の槍をもって助けた。「槍の半蔵」ともいわれたほどの槍の名手である。また本能寺の変の時は、堺にいた家康を領国に導いた。後に、半蔵門内に屋敷を拝領し、与力30騎、伊賀同心200人を支配して江戸城の警護にあたった。

献眼慰霊碑
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服部半蔵の墓
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今回のルートは、ともかくも坂の多い寺町であった。

近くのお寺の名前がついた坂が多いが、時代によっては名前がいろいろ変っている坂も多い。

円通寺坂は、津の守坂に通じており、新宿通りから円通寺の前に下りてくる坂。

東福院坂(天王坂)は、坂の途中にある東福院に因んで名付けられた。別名の「天王坂」は、明治以前は須賀神社が牛頭天王社と称しており、この辺りを天王横丁と呼んでいたため。

戒行寺坂は、戒行寺の南側を東に下る坂。坂の途中に豆腐屋があり油揚げを造っていたので、別名「油揚坂」という。

観音坂は、この坂の西脇にある真成院の潮踏観音に因んで名付けられた。潮踏坂、潮干坂ともいう。また、江戸時代は西念寺の表門がこの坂に面していたので「西念坂」ともいった。

円通寺坂
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東福院坂
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戒行寺坂
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観音坂
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同上説明文
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同上説明文
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同上説明文
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JR四谷駅北詰めに、四谷見附門跡がある。

5街道のうち江戸城に直接つながっているのは甲州街道だけである。他は日本橋につながっていて、直接江戸城に攻め込むことができない設計になっている。それでも万一江戸城が攻められた時のため、甲斐の国に向けて脱出できるように、甲州街道だけが江戸城と繋がっている。その接続点が半蔵門で、その警護に服部半蔵が当たっていた。

今は、半蔵門から出た道はJR 四ッ谷駅の見附橋を渡り、新宿通りとなって新宿の追分に向っているが、旧街道は見附橋の北側の橋を渡って三栄通りの方向に通っていた。

橋の東側には、枡形見附門が築かれ、その跡が今でも残っている。JR 四谷駅の案内地図には見附の跡と書いてあるが、その場所には、碑や説明板などは見当たらない。

遺構の石
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見附の跡
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三栄通り
あとがき
「四谷、新宿、馬の糞
」といわれるくらい人馬の往来が激しかった宿場を抜けると、甲州街道は、津の守坂から真っ直ぐに四谷見附まで、今の三栄通りを通っていた。外堀の橋を渡ると、枡形門を抜けてから半蔵門に通じることになる。大木戸といい、桝形門といい、都市の治安と防衛上の設計が読み取れる。

この通りの南側の斜面沿いには、多くの寺が集まっている。江戸城拡張工事のときに移転してきた寺もあるという。今回は、その寺町を歩いた。

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