大江戸写真漫歩



尾張藩上屋敷から  大手門まで

まえがき
嫡男のいない七代将軍家継が死去し、御三家から次の将軍を選任する日の出来事である。

尾張藩主継友が市ケ谷本村町の上屋敷を出て江戸城に入る途中、トンテンカンという鍛冶屋の鎚の音が幸先よく「テンカ〜、トール」と聞こえてきた。

しかし、八代将軍職は紀州の吉宗に決まってしまった。

帰途についた尾州公が鍛冶屋の前まで来ると、槌の音があいかわらず「テンカ〜、トール。テンカ〜、トール」と聞こえてきた。続いて真っ赤に焼けた刀が打ちあがって、これを水の中に入れると「キシュ〜(紀州)」と聞こえたというのが噺の落ちである。

落語の世界は常に滑稽で面白いが、実際の尾張、紀州両藩の鎬(しのぎ)を削る暗闘はどうであったろう。
このあたりの話はあとがきで述べることとして、それでは本丸に向けて歩くことにしよう。


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御三家筆頭の尾張藩主継友が上屋敷を出て江戸城に登城する道筋は、市ケ谷御門を抜け、靖国通りを九段下で右に折れ、清水濠沿いに竹橋から正門である大手門を経て本丸に入ったものと思われる。

尾張藩上屋敷(7万5千坪)跡は、今年1月に「庁」から「省」に昇格した防衛省の本部になっている。



防衛省本部


防衛省
800m程行くと左手に亀ケ岡八幡宮が見えてくる。

太田道灌が江戸城西の守り神として鎌倉の鶴ケ岡八幡宮を半蔵門辺りに分祀したのが創建で、徳川家康が江戸城を拡張したときに現在地にあった茶の木稲荷神社の境内に遷移し、今日に至っている。

鶴ケ岡を亀ケ岡といったのは、江戸つ子の洒落気であろうか。また、神社には太田道灌が所持したという軍配団扇(ぐんばいうちわ)が保存されている。

銅製の鳥居は文化元年(1804)の建立で高さ4.6mあり、額の八の字は、神使の鳩一対によって形成されている。

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亀ケ岡八幡宮


銅製鳥居の額


銅製の鳥居
八幡宮の境内には出世稲荷がある。
また、「動かざる御世画にすればふじの山」と彫られた歌碑や数多くの力石がある。

境内は高台になっていて、往時は富士山がよく望めたというが、今はビル群にさえぎられて見ることはできない。。



出世稲荷

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歌碑


力石

正面石段の中程に茶の木稲荷神社がある。

今をさる一千年余り昔、弘法大師が関東下向の時に開山したと伝えられている。

伝えによれば、昔この山に稲荷大神の神使の白狐が居たが、ある時あやまって茶の木で目を突き、それ以来崇敬者は茶を忌み、正月の三ヶ日は茶を呑まない習俗があったとう。特に眼病の人は、茶をたって祈願すれば霊験があらたかであったという。



茶の木稲荷神社


 茶の木稲荷神社 本殿
亀ケ岡八幡宮の先で外堀に架かっている市ケ谷橋を渡る。此のあたりに見る外堀は雄大で、往時を思わせるようである。

橋を渡って左手に交番があるが、ここら辺りが市ケ谷見附の御門跡で、石垣で枡形に仕切られていた。

写真に写っている石垣石は、江戸城外堀跡の市谷御門橋台に築かれていた石垣の一部であるとう。


市ケ谷付近の外堀

市ケ谷見附御門跡

ここからは靖国通りに沿って緩やかな登り坂となる。

先ず右手の、囲碁の日本棋院に行く坂道が、番町皿屋敷のお菊が帯を乱して走ったという帯坂である。

250m程歩くと右側に東郷元帥屋敷跡の公園があリ、東郷坂が見える。ここら辺りが番町一帯である。

200m程歩いて左側に一口坂を望む。「一口」と書いて、「いもあらい」と読むという。

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帯坂
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東郷坂
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一口坂
一口坂の先に靖国神社の築地塀が見えてくる。

歩道沿いに見事な桜並木ができている。

この築地塀の向かい側には、昔からの古い看板を掲げた商店が今も残っている。



靖国神社築地塀

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万藤酒舗

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呉服みそ乃

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宝来屋
ようやく九段坂上に出て、内堀通りとの三叉路に到る。

ここからは九段下に向けて下り坂となる。しばらくして右側に、インド大使館と桜で有名な千鳥ケ淵が現れる。

江戸城の内堀は、田安門の西側が千鳥ケ淵、東側が牛ケ淵と名付けられている。



インド大使館


千鳥ケ淵


牛ケ淵
左の大きい建物が昭和館
田安門の前に靖国通りをまたぐ歩道橋がある。歩道橋の脇に、王政復古に尽力した、吉田松陰門下の子爵(今は死語となった)品川弥二郎の像がある。

また、その横に明治4年に作られた燈明台がある。これは招魂社(靖国神社)のための燈明台で、当時は高灯篭と呼ばれていた。

九段の地は東京の中でも最も見晴らしがよく、神田明神の灯燈明台とならんで東京湾を航行する船の安全に役立っていた。

とくに、房総沖などから日本橋の魚河岸へ船をこぎ寄せる漁民にとっては格好の目印になっていたという。



品川弥二郎像


招魂社の高灯
歩道橋を北側に渡ったところが靖国神社の大鳥居である。大正8年、日本一の青銅製大鳥居として建てられ、現在のものは昭和49年に全国からの寄進により再建されたもので、高さは25mである。

靖国神社の前身である招魂社は、大村益次郎らによって、旧幕府の歩兵屯所跡に、戊辰戦争で亡くなった薩摩藩士、長州藩士、水戸藩士ら3、588名を祀ったのが始まりである。

九段坂のいわれについては、坂の途中にある標識に次のように書かれている。すなわち、「この坂は古くは飯田坂ともよびましたが、むかし長屋が九段に建っていて、これを九段長屋と呼んでいたので、この坂を九段坂というようになった」とある。坂上は、月見の名所としても名高かった。

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靖国神社の大鳥居
もう一度歩道橋を渡って、もと来た道に戻る。

田安門を右手に見て坂を下ると、右側に長円形の大きな7階建ての昭和館が目前に現れる。

話が江戸からそれるが、昭和館は平成11年に開館した、戦中・戦後の国民生活にかかわる資料情報を保存展示している国立の施設で、日本遺族会が厚生労働省から委託を受けて運営している施設である。

閑話休題。
昭和館の前を下ると、靖国通りと内堀通りとの交差点・九段下に出る。

尾張藩上屋敷からここ九段下までが、おおよそ2.5 kmである。

九段下交差点を右折してからは、内堀通りに沿って、清水門、竹橋、平川門、を経て大手門に到る約1,5kmの道のりであるが、この間の記録は、『江戸城・内堀一周コース』の後半部分と重複するので、そちらを見ていただきたくお願いして、ここでは割愛する。



昭和館

あとがき
落語のフイクションでは、尾張公がうっかり「余は徳薄うして‐‐」といったがために紀州公に油揚をさらわれたことになっているが、史実では紀州側の周到な画策があったようである。
すなわち、享保元年(1716)紀州藩主吉宗は六代将軍家宣(いえのぶ)の正室天英院から、病床にあった8歳の七代将軍家継の後見人を命じられ、その翌日家継が死去し、尾張藩が口を挟む猶予もあたえず、電撃的にまんまと八代将軍の職に横滑りすることになったようである。

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