大江戸写真漫歩
尾張藩上屋敷から 大手門まで
御三家筆頭の尾張藩主継友が上屋敷を出て江戸城に登城する道筋は、市ケ谷御門を抜け、靖国通りを九段下で右に折れ、清水濠沿いに竹橋から正門である大手門を経て本丸に入ったものと思われる。 尾張藩上屋敷(7万5千坪)跡は、今年1月に「庁」から「省」に昇格した防衛省の本部になっている。 |
防衛省本部 |
防衛省 |
800m程行くと左手に亀ケ岡八幡宮が見えてくる。 太田道灌が江戸城西の守り神として鎌倉の鶴ケ岡八幡宮を半蔵門辺りに分祀したのが創建で、徳川家康が江戸城を拡張したときに現在地にあった茶の木稲荷神社の境内に遷移し、今日に至っている。 鶴ケ岡を亀ケ岡といったのは、江戸つ子の洒落気であろうか。また、神社には太田道灌が所持したという軍配団扇(ぐんばいうちわ)が保存されている。 銅製の鳥居は文化元年(1804)の建立で高さ4.6mあり、額の八の字は、神使の鳩一対によって形成されている。 |
亀ケ岡八幡宮 |
銅製鳥居の額 |
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銅製の鳥居 |
八幡宮の境内には出世稲荷がある。 また、「動かざる御世画にすればふじの山」と彫られた歌碑や数多くの力石がある。 境内は高台になっていて、往時は富士山がよく望めたというが、今はビル群にさえぎられて見ることはできない。。 |
出世稲荷 |
歌碑 | 力石 |
正面石段の中程に茶の木稲荷神社がある。 |
茶の木稲荷神社 |
茶の木稲荷神社 本殿 |
亀ケ岡八幡宮の先で外堀に架かっている市ケ谷橋を渡る。此のあたりに見る外堀は雄大で、往時を思わせるようである。 橋を渡って左手に交番があるが、ここら辺りが市ケ谷見附の御門跡で、石垣で枡形に仕切られていた。 写真に写っている石垣石は、江戸城外堀跡の市谷御門橋台に築かれていた石垣の一部であるとう。 |
市ケ谷付近の外堀 |
市ケ谷見附御門跡 |
ここからは靖国通りに沿って緩やかな登り坂となる。 先ず右手の、囲碁の日本棋院に行く坂道が、番町皿屋敷のお菊が帯を乱して走ったという帯坂である。 |
帯坂 |
東郷坂 |
一口坂 |
一口坂の先に靖国神社の築地塀が見えてくる。 歩道沿いに見事な桜並木ができている。 この築地塀の向かい側には、昔からの古い看板を掲げた商店が今も残っている。 |
靖国神社築地塀 |
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ようやく九段坂上に出て、内堀通りとの三叉路に到る。
ここからは九段下に向けて下り坂となる。しばらくして右側に、インド大使館と桜で有名な千鳥ケ淵が現れる。 江戸城の内堀は、田安門の西側が千鳥ケ淵、東側が牛ケ淵と名付けられている。 |
インド大使館 |
千鳥ケ淵 |
牛ケ淵 左の大きい建物が昭和館 |
田安門の前に靖国通りをまたぐ歩道橋がある。歩道橋の脇に、王政復古に尽力した、吉田松陰門下の子爵(今は死語となった)品川弥二郎の像がある。 また、その横に明治4年に作られた燈明台がある。これは招魂社(靖国神社)のための燈明台で、当時は高灯篭と呼ばれていた。 九段の地は東京の中でも最も見晴らしがよく、神田明神の灯燈明台とならんで東京湾を航行する船の安全に役立っていた。 |
品川弥二郎像 |
招魂社の高灯篭 |
歩道橋を北側に渡ったところが靖国神社の大鳥居である。大正8年、日本一の青銅製大鳥居として建てられ、現在のものは昭和49年に全国からの寄進により再建されたもので、高さは25mである。 靖国神社の前身である招魂社は、大村益次郎らによって、旧幕府の歩兵屯所跡に、戊辰戦争で亡くなった薩摩藩士、長州藩士、水戸藩士ら3、588名を祀ったのが始まりである。 九段坂のいわれについては、坂の途中にある標識に次のように書かれている。すなわち、「この坂は古くは飯田坂ともよびましたが、むかし長屋が九段に建っていて、これを九段長屋と呼んでいたので、この坂を九段坂というようになった」とある。坂上は、月見の名所としても名高かった。 |
靖国神社の大鳥居 |
もう一度歩道橋を渡って、もと来た道に戻る。 田安門を右手に見て坂を下ると、右側に長円形の大きな7階建ての昭和館が目前に現れる。 話が江戸からそれるが、昭和館は平成11年に開館した、戦中・戦後の国民生活にかかわる資料情報を保存展示している国立の施設で、日本遺族会が厚生労働省から委託を受けて運営している施設である。 尾張藩上屋敷からここ九段下までが、おおよそ2.5 kmである。 九段下交差点を右折してからは、内堀通りに沿って、清水門、竹橋、平川門、を経て大手門に到る約1,5kmの道のりであるが、この間の記録は、『江戸城・内堀一周コース』の後半部分と重複するので、そちらを見ていただきたくお願いして、ここでは割愛する。 |
昭和館 |
あとがき |