吉良邸跡から 永代橋へ
JR総武本線両国駅西口から南に250mほどのところが回向院で、その裏手の道を200mほど東に来たところに、「赤穂義士遺跡 吉良邸跡」の石碑が建っている。 浅野内匠頭が切腹して5ヶ月後には、吉良邸はお城に近い呉服橋門内から、ここ本所一つ目回向院裏に屋敷替えになっている。その屋敷は2,557坪、建坪は1,234坪と広大なものであった。 この遺跡公園は、日本一小さい公園といわれている。高家の格式あるなまこ塀が再現されており、往時が偲ばれる。 |
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中に入ると、吉良公の首を洗った井戸や忠臣蔵関係の説明板や吉良家の20名の犠牲者の名を刻んだ墓碑などがある。全体としては、吉良家の立場に立った遺跡に造られている。 |
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吉良家の 犠牲者の墓碑 clik |
討入り後に地所清めのために遷宮したという松阪稲荷神社が、保存されている。 遺跡公園を出ると、斜め右前の角に飯澄稲荷がある。昔は、吉良邸内にあった社であろうか。 |
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飯澄稲荷
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此の辺りには、相撲の大島部屋、出羽ノ海部屋、井筒部屋などが集っている。 ちなみに、出羽ノ海金蔵(後の運右衛門)が出羽ノ海部屋を開いたのは、寛政末年(1800)の頃である。 墨田川に沿って国技館通り(萬年橋通り)を南下し、竪川に架かる一之橋を渡る。文字通り、竪川の一つ目の橋である。此の川は江戸城に対して縦向きに流れているので、竪川といい、横向きに流れている川は、大横川、横一間川などという。 |
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橋を渡ってすぐ左手に江島杉山神社の鳥居が見える。ここは、関東周辺の琵琶法師、鍼灸師、按摩などの盲人を統括していた総禄屋敷跡である。 杉山和一〔慶長10年(1615)生れ〕は幼少時失明したが、江ノ島の岩窟の中で厳しい修行の末、鍼を管に入れて的確にツボを押さえるという、画期的な杉山流管鍼術を考案した。後年5代将軍綱吉の治療の功で褒美を尋ねられたとき、目を所望した。将軍は「一つ目」の土地と関東総禄検校職を与えたと伝えられている。境内には、江ノ島の岩窟を模した洞窟が造ってある。 |
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300mほど進むと右手に新大橋を見る。元禄6年(1693)隅田川で3番目に架けられた橋である。 |
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清洲橋と新大橋が眺められる堤防の上に、芭蕉庵史跡庭園が造られていて、芭蕉の坐像が大川を向いて置かれている。 芭蕉稲荷の真向かいに、正木稲荷がある。柾木稲荷とも真先(まっさき)稲荷とも書かれていた。昔、此の所に大きな柾木が立っていたからという。 |
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ここは小名木川が墨田川に注ぎ込む合流点である。その小名木川に架かる橋が萬年橋である。小名木川は、行徳(千葉)の塩田でとれた塩を江戸に運ぶために、天正18年(1590)に開削され、寛永6年(1629)に現在の川幅に広げられた。 萬年橋から1km程南下したところが永代橋である。永代通りに出る手前20m程の左手角に「乳熊ビル」がある。このビルの前に「赤穂義士休息の地」の碑がある。碑文によれば、「ちくま味噌店」の初代竹口作兵衛は其角の門人で、大高源吾と俳界の友であった。討入本懐を果たした義士たちに甘酒粥を振舞って労をねぎらったという。 |
萬年橋
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あとがき 今日の吉良邸跡より永代橋までの直線距離は、おおよそ2,5kmであるが、あちらこちらに寄り道をしているので、実際に歩いた距離は2倍以上あったと思う。 次回の「その2」は、永代橋を渡って新川に入り、八丁堀から鉄砲洲、明石町から築地に至るコースを歩くこととする。 |